「セクハラ」  毛利素子は、通称”鉄の女”とか”氷の女”と呼ばれている。元々、入社当時から基礎 能力が高く、周りの同期の社員を見下していた。それが災いして、新入社員研修時には同 期の社員たちから反感を買っていた。また、新入社員研修の講師に対しても、レベルの高 い質問やあげ足取りをして、講師を困らせていた。  唯一、彼女が心を開くのは、同じ同期で入社当時から基礎能力が一番低かった上杉景子 ぐらいである。この上杉も自分知識の低さを承知してか、自分が解らないことを次々と質 問して講師を困らせていた。  そんな凸凹コンビがどこでうまが合ったのか、次第に打ち解けるようになり、このコン ビ込みで藤次郎がOJTの面倒を見ることになった…そして、一年半が過ぎた…しかし、こ の間、素子は会社の男性陣になじめず、素子の面倒を見ている藤次郎に対しても、あまり うち解けなかった。  藤次郎が朝、部長の席に行き、何か包みを渡して話を始めた。作業をしている素子の耳 に、  「…昨日借りた…ビデオ…、出ていた俳優が……いやらしい…、悶絶…二人で…た」 と、聞こえてきた。素子は「きっと、アダルトビデオの話をしているのだわ…いやらしい …」と思い不快になった。  すると、係長の宗像幸子が同じく不快な表情をして、部長席につかつかと行ったが、し ばらくして幸子までもがその会話に入ってしまった。  とうとう、素子はキレてしまって  「ちょっと、萩原さん!何を大声で話しているんですか?萩原さんには、恋人が居ると いうのに…それに、係長までなに一緒になって談笑して居るんですか?」 と、素子は部長席に詰め寄ってきた。途端に、三人とも目が点になった。  「なにって…?」  「何言っているの?」 と、藤次郎と幸子は素子に対して聞き返した。  「…なにって…『いやらしい』とか…なんとかとか…」  藤次郎と部長の会話を思い出し、次第に顔を赤らめながらも、次第にしどろもどろにな って説明する素子に対して、  「いや、人事部から借りたビデオを見た感想を報告したんだ、ほら…この前このフロア を使って教材会社の人達が撮影してたじゃないか…それを見て、部長に『昨日借りた研修 用のビデオを観ましたが、出ていた俳優がわざとらしい芝居をしていやらしいったらあり ゃぁしません、悶絶するほど面白くて彼女と二人で腹を抱えて笑って観ていました』と、 言ったのだけど…」  「エッ?」  素子は耳まで真っ赤になってしまった。  「…わ、わたしてっきり…」 と言って俯いてしまった。  「あれ?知らなかったっけ…そういえば、その日は毛利君は外出してたような…」 と藤次郎の目が空を見て言った。  「いゃあねぇ、わたしも最初そう思ったんだけど…でも、そんな言葉に反応するのでは、 毛利さんもそろそろ彼氏が欲しいんじゃない?」 と、幸子は笑って言った。藤次郎も同じようなことを言いそうになったが、それだと本当 にセクハラになると思ったので、喉まで出かかっていたのを押しとどめていた。  「ボスハラです!」 と言い捨てて、素子は席に戻った。  「ちょっと、素子ちゃん。どうしたの?真っ赤になって…」  同僚の上杉景子が気遣う。  「…べっ別に…」  素子はよけい真っ赤になって否定した。その頃には、素子の心の中では何とも説明が付 かない嫌悪感が広がっていた。  その日、素子が仕事が手につかなかったのを見かねて定時近くになって  「どうだ、久しぶりに一杯…」 と、藤次郎は気遣って声をかけた。素子は戸惑ったが、しばらく思案して、  「はい、お付き合いします」 と静かに答えた。それをどこで聞きつけたのか、  「あーーら、萩原君。いいこときいたわよぉ」 と言って、素子はもとより、幸子,景子、おまけに今年の新入社員で藤次郎のグループに 配属されて幸子の部下になったも伊達頼子も集まった。そして誰が呼んだのか知らないが、 玉珠まで出てきた。  藤次郎の行きつけの居酒屋で素子を励ましているのか、ただ飲みたいだけなのか訳の分 からない状態なった。  この日、素子のピッチは早かった。普段は酔っても乱れたことのない素子が珍しく愚痴 を言った。みんないい加減に聞いていたが、玉珠だけはしっかり聴いていた…そして、素 子は珍しく酔いつぶれてしまった。  藤次郎は玉珠の指示で、完全に酔っぱらった素子を抱えて玉珠と共に藤次郎のアパート に運び込んだ。それには景子も心配してついてきた。  布団を敷き、藤次郎は素子を寝かすと玉珠に素子を見ているように言い、藤次郎は胃腸 薬と肝臓の薬を薬箱より取り出した。  藤次郎がキッチンから水を持って戻ると、素子はガタガタと震えていた。玉珠は素子の 額や頬を手で触れていた。景子はただオロオロしているだけだった。  「多分軽い急性アルコール中毒だと思う…暖かくして少し様子を見ましょう…藤次郎、 毛布出して」 と、玉珠は言った。藤次郎は頷くと押入から毛布を出した。  やがて、素子が静かに寝息を立てているのを確認して、藤次郎,玉珠,景子の三人は、 また飲み始めた、しばらくして藤次郎と景子は酔いつぶれて寝てしまったが、玉珠は素子 の様子を注意してした。  そして、  「…ここは?」  「気がついた?」  目が覚めた素子の目に映ったのは、自分の顔を覗き込むように見る玉珠の顔があった。  「橋本さん」  起きあがって驚いたように玉珠を見つめる素子に対して、  「よかった…」  玉珠は安堵の息を漏らした。  「私は…?」  素子は辺りを見回して言った。  「軽い急性アルコール中毒になったの…覚えていない?」  「みんなの声は聞こえてましたが、体がなぜかガタガタ震えて…」  素子は自分の肩を抱いた。玉珠はそれを見るとニコリと笑って、素子の背中を優しくさ すると  「ねぇ、お腹空いた?とろろ汁作ったから、食べる?」 と、優しく言った。  「…はい」  素子は無邪気に笑って答えた。なぜ笑顔になったのか、自分でも分からなかった。  とろろ汁をすする素子に対して、玉珠はふと、  「あなた男性に不信感があるわね?」 と聞いた。素子は図星を指されたので、最初「いいえ」と否定しようとしたが、素直に  「はい…」 と答えた。  「私もなりかけたことがあるのよ」  「橋本さんが?」  素子は疑った。いつも明るく藤次郎と話している今の玉珠から想像がつかなかった。  「私と藤次郎が幼なじみだって知ってる?」  「はい、以前に聞いたことがあります」  「高校時代まで付き合ってたのよ…もっとも、高校に入って父の転勤で引っ越ししたの だけど、ほら、あの通り藤次郎は朴念仁だから、文通してもなかなか返事が返って来なか ったわ、何度も離れそうになったか…でも、不思議に縁が繋がってたわね。大学に入った 頃から音信不通になっても、本当に縁が切れたとは思わなかったわ。でも、その間男性不 信になったけど…」  ここで、玉珠は昔の自分を思い出したらしく、フッとため息を漏らすと、続けて  「…もう、『男なんて信じられない』とあちらこちらで言いまくって、大学の同期から ”堅い女”とか”鉄の女”とか言われていた時もあったかな」 と言って、玉珠は薄笑いともつかない笑みを浮かべた。そして、  「でも、藤次郎に再会したら、今までの不満とか何とかが吹っ飛んじゃって、ただ胸が ドキドキしていたわ」 と、そのまま言った。  「…そんなものですか?」  不思議そうに玉珠を見つめる素子に対して、  「そんなものよ…いつかはあなたにも気が許せる彼氏が現れるわよ」 と言って、玉珠は幸せそうな笑顔を素子に向けた。素子は玉珠の視線から自分の顔を背け ると、そのまま俯いて、とろろ汁の入ったお椀を両手で胸に抱き、  「…私、学生時代に付き合っていた彼が居たんです。でも、二股かけられていて、私は ただ便利なアクセサリー程度の扱いで、本命の彼女が居ないときの予備にされていたのを ある日分かったんです」  「…そう」  「だから、男を見返してやろうって思って、勉強してきたんです」  玉珠は黙って頷いて、素子の言葉を玉珠は暖かく受け止めていた。玉珠は「…だから、 同僚のしかも、男の子を見下していたのね」と思った。  「それ以来…男の人が信じられなくなって…だから、橋本さんと萩原さんを見ていて、 最初、橋本さんも『可哀想に…』と思っていたのですが、萩原さんと橋本さんの今までの ドラマというか…いきさつを聞いて、『すごいなぁ…この二人は本当に結びついてるなぁ …』と最近思えてきて、複雑なんです…萩原さん、宗像係長とも景子ちゃんとも親しいか ら…今の萩原さんと、橋本さんの仲の良いのを見て、羨ましいような憧れのような気持ち になっているんです」  「ふふっ、ありがとう。確かに、あの二人には警戒しているけど、藤次郎の性格だと多 分、藤次郎自体は何も考えていないわ」  「自信ありますね」  悔しそうに言う素子に対して、  「そうよ…そう思わないとね」 と、玉珠は笑った。  その晩明け方まで、玉珠と素子は話をしていた…寝ている当人を横にして、藤次郎の悪 口なども言って…  その後日、現場で玉珠と仕事のことで言い合いをして席に帰ってきた藤次郎に対して  「萩原さん、玉珠さんを大事にした方がいいですよ」 と言って、素子は藤次郎に微笑みかけた。素子がこういう事を言ったこと自体驚くべき事 であるが、藤次郎は素子が言った言葉に深く考えず、「うん…」と頷き、また、素子が微 笑んだのに気づかなかった。しかし、景子はちゃんと見ていて、藤次郎が席を立った後を 見計らって、素子に  「…ちょっと、素子ちゃんどういう気の回し?」 と、聞いた。それに対して、素子は  「…いや、別に」 と言って、微笑んでいた。 藤次郎